作成日 : 2008-07-28 16:58|HIT : 5265
華夏思想と由来 2

‘華夏族’は漢族の前身を成す族属である。 したがって漢族の前身を分かるためには先に華夏族に対して分かる必要がある。
 古代中国では ‘中国’という用語よりは ‘華夏’という用語がもっと確かな意味を持っていた。 ‘中国’が居住地域と境界を仕分け作る意味が強かったら ‘華夏’はその地域に居住する構成員の主体を指称する用語だったからである。‘華夏’は本来地名を倣って作った用語だったが徐徐に黄河中下流地域に居住しながらいわゆる ‘黄河文明’を建設した人々を指称する意味で固まるようになった。

春秋時代には既に‘華夏’は特定地域に居住する人々を指称する用語で使われた。‘華夏’と呼ばれる人々は始終一貫辺方民族との差別化を通じて彼らのアイデンティティを構築して行った。当時の構図は大きく黄河中下流で活動した ‘中原華夏族’と長江以南の ‘南方苗蛮族’, 東部地方に居住した ‘東方東夷族’で分けて見られる。
この中で華夏族は地域的でも文化的に他の地域の構成員たちと差別化を進行させながら彼らばかりの民族意識を結集させて行った。華夏族は今日にも相変らず中国文化を主導している ‘漢族’の前身である。

中華人民共和国が樹立された以来中国政府は漢族と 55個少数民族の仲直りと協力のために多方面で努力している。 このような仲直りのジェスチャーにもかかわらず相変らず漢族が中国文化の主体になるしかない理由は ‘華夏’が持った意味の両面性, すなわち文化主体と民族主体を同時に満足させることができる構成員は ‘漢族’であることしかないからである。

血統より強い文化的意味の ‘中華’コード

華夏族は後日 ‘諸夏列国’と呼ばれるようになったが諸夏列国は血統に基盤を置いた世襲を通じて規模をふやして行った。
このような伝統は商を経って周代に至って‘封建制度’で発展するようになった。 そして封建制度の中で以前に部族の親分に信奉された人物は次第に‘天子’に推仰されたしその下の諸侯国たちは天子の権威を認めながらそれなりの秩序を維持して行った。しかし春秋戦国の時に入りながら中原地帯は諸夏列国の間の戦争と辺方民族たちの侵入で二重苦に苦しむようになった。

諸夏列国たちは残酷に中原を踏み付けて掠奪する辺方民族たちとの闘いの中で徐徐に彼らを ‘野蛮’と呼びながら差別して排他する観念が芽ぐみ始めた。 諸夏列国は彼らを主に東夷、 南蛮、西戎、北狄と呼びながら自分たちと ‘蛮夷’を区分した。 これら ‘蛮夷’ 呼称は大部分が獣の特徴や道具の来由を持ったので結局人らしく住むことができない群落に属した者等という差別する意味だった。

諸夏列国が自分と‘蛮夷’を区分した根拠は決して血統間の差にあらなかった。 彼らは彼らと血続き関係があった国々、例えば春秋時代 ‘呉’ と ‘楚’は諸夏列国と血縁関係があったが皆(南蛮)と呼ばれた。 一方春秋時代の ‘秦’の場合は距離上に中原で遠く離れた陜西省に位したが‘蛮夷’で称しなかった。 しかし戦国時代に入って ‘秦’の文明が進歩して制度が整備された時はむしろ彼らを ‘蛮夷’と呼んだ。 諸夏列国が春秋の ‘楚’と戦国時代の ‘秦’を ‘蛮夷’で称したことは決して血統で仕分けによったのではなく彼らが ‘侵略国’であったからだった。

近代中国の歴史学者である‘銭穆’は春秋戦国時代に 諸夏列国と‘夷狄’の仕分けは血統によることでなく一番目は‘生活方式’の差によること。二番目は‘平和連盟’による物だったと言っている。

‘生活方式’の差と言うのは諸夏列国と違い ‘夷狄’は農業社会ではなく城市国家でもなかったから差別化されたし、また和平と緊張関係を維持しようとする連盟に属しない侵略国の領土に属していたから差別化されたというのである。 この共通分母は広く言えば ‘文化’の方式に属する。
事実上孔子と彼の編集した経典が影響力を行使する以前に諸夏列国によって形成された ‘中華観念’と言うのは前述した ‘生活方式’と‘政治的連盟’の枠内で形成された観念に過ぎなかったはずである。
 その後孔子(B.C 551~B.C 479)を経りながら中華観念に ‘人文主義’の魂が吹き入れられ道徳と人倫を言う漢族とそういう教育を受けることができなかった夷狄の仕分けがこの時から確実に現われるようになったのである。

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