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康有為

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no_profile チャイナ7 쪽지보내기 메일보내기 홈페이지 자기소개 아이디로 검색 전체게시물 09-05-31 23:06 view 7,254回 コメント 0件

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康有為-百日維新の核心人物


康有為(1858~1927)は清代末期に維新変法で百日維新を善導した改革派の核心人物である。 他の名前は祖隸窒ナ、字は広厦、号は長素だ。広東省南海県封建官僚家で生まれた康有為は幼い時、厳格な儒家教育を受けながら育ったし、 1879年(<光緒> 21年)霑寰mに合格した。初めには伝統儒学を勉強したが、 国家的危機と現実的刺激は彼を旧学問に懐疑を抱くようにした。

1879年康有為は香港へ行ってから初めて西洋の資本主義思想と当時の改良主義思潮を接触した。 1882年上海で西洋書籍を大量に購入して西学研究に取り組んだ。 彼は西洋の政治制度と自然科学知識を紹介した本を大量読んだ後、 外国資本主義制度が中国の古い封建制度より優秀だということを感じて、 西洋の資本主義国家をモデルとして中国を改革しなければならないと主張した。

1888年10月、中国フランス戦争以後危機に処した国家情勢に直面して、康有為は北京で順天郷試の参加を機会で光緒帝に '一番目の上書'をあげて変法の必要性と切迫性に対して述べた。この上書は皇帝の手に伝達しなかったが、 当時維新思想を持っていた愛国人士たちの口を通じてその内容が世の中に伝わりながらどの位社会的影響を及ぼしたし、 これによって康有為も少しの名声を得るようになった。

1891年康有為は広州に帰って長興里に'万木草堂'を設立した後、学生たちを募集して学問を講義しながら著述を通じて維新思想を広く知らせた。この時刊行した ≪新学偽経考≫で彼は西漢末に発見された古文経書を"孔子の経典ではなく・・ュ・ェ偽造したこと"と主張した。このような主張は歴史的事実に符合すると言うことは難しいが、彼は大胆にも歴代封建統治者たちが神聖不可侵と思って来た儒家の '経典'を'偽経'と宣布して頑固な保守派の守旧主義を攻撃することで、変法維新の障害をとり除くための理論的根拠を用意した。

康有為は彼の弟子陳千秋、梁啓超などの助けを借りて1892年から≪孔子改制考≫を編纂し始めて1898年に刊行した。ここで彼は孔子を革新の先駆者として、孔子が≪六経≫を作った目的は尭舜のような古代聖君の言葉を借りて当時の社会を改革するためのことだったと主張した。すなわち彼はここで孔子の名前を借りて変法の正当性を証明しようとしたのだ。

 この本で彼は歴史進化論的観点に即して社会発展段階を" 拠乱世(乱世)、 升平世(すなわち<小康>)、 太平世(すなわち<大同>)"の三段階で分けて、 "拠乱世"は西洋の君主専制時代、 "升平世"は君主立憲時代、 "太平世"は民主共和時代だと思った。このような仕分けはちょっと非科学的な面もあるが、こんなに区分した意図は歴史の発展変化を前提に政治制度(すなわち君主専制制度) 変革の不可避性を証明しようとするのにあった。こういうわけで彼の変法維新はその理論的根拠を取り揃えるようになった。

1895年下関条約が締結された以後康有為は 5月 2日北京会試(郷試に合格した<挙人>たちが受けることができる科挙試験。 <貢士>だと称される合格者には<殿試>を受ける資格が付与される)に参加した挙人(<郷試>合格者) 1300余人と連帯署名してあげた"公車上書(公車は挙人の対称で挙人たちがあげる上書という意味)"で、日清講和條約の拒否、
西安への遷都、軍隊養成、変法を通じた富国強兵策などを要求して、さらには政治、経済、文化教育などに対する全面的な改革を主張した。 ここで一次的に資産階級改良主義変法綱領が形成された。

この上書はたとえ都察院によって移送が断られることで下関条約の締結を阻止することができなかったが、 士たちの政治参加禁止規定を打破して、 資産階級維新改革の政治綱領を申し立てて社会的に多くの影響を及ぼした。こういうわけで康有為は維新運動の指導者になった。
会試合格者の発表結果康有為は霑寰mに合格して工部主事に任命された。同じ年の5月29日彼は皇帝にあげる'三番目の上書'で変法の理由と手続きに対してもう一度闡明して、 富国、養民、養士、 練兵などの自強策を建議した。

彼の三番目の上書は遂に光緒皇帝に伝達して光緒皇帝の支持を受けるのに成功した。 光緒皇帝は康有為の変法を受け入れて亡国の絡繰り人形皇帝という汚名を洗って慈禧太后(すなわち、 西太后)から政権を取り戻そうとした。 続いて彼は'四番目の上書'をあげて"議院を設置して民心を把握しなければならない"と言う主張を正式に提出した。
維新運動に対する士大夫と知識人階層のもっと多い支持を確保するために康有為と梁啓超などは北京、 天津、 上海、 湖南、 広東等地で新聞を創刊して学会を組織した。

1895年7月、康有為と梁啓超は北京で'中外紀聞'を創刊した。 8月(一説では11月とも言う) 翰林院・侍読学士・文廷式、陳熾などとともに講学会を創立した。この講学会では'講学書局'を設立して国内外の書籍を翻訳出版した。 講学会は 10日ごとに一度ずつ集会を持ったし、集まる毎に'中国自強学'を講論した。 講学会には多くの愛国志士と一部の官僚たちが参加したが、 その中には袁世凱のような軍閥たちも挟まっていた。この時イギリスとアメリカを含めた列強たちは講学会の活動を積極的に支援した。
1895年10月、康有為は上海に行って講学会を設立して翌年の1月に '強学報'を創刊した。 そして各地に学会と新聞社設立を推進して変法維新を広く広報した。

1897年11月、 ドイツが膠州湾を占拠した事件が発生した後、 広州にいた康有為は急に北京に帰って光緒帝に'五番目の上書'をあげて、 変法を施行しなければ国が滅びると厳に警告した。 しかしこの上書は工部尚書が上奏してくれなくて皇帝に伝達することができなかった。

1898年 1月 24日光緒帝はこの上書の内容が分かって翁同酥、李鴻章、栄禄などの大臣たちを派遣して康有為に質問をするようにした。ここに康有為は"先祖たちの法を変えてはいけない"と言う栄禄の主張と "現在の状況を維持しなければならない"と言う李鴻章の思想を反駁して、 変法の必要性と具体的な措置に対して逆説をした。結局康有為の変法主張は翁同酥の同意を得た。 翁同酥の推薦で光緒帝は以後康有為の上書は中間で誰も遮断せずにその日直ちにあげるように命令した。

1898年 1月 29日康有為は彼の '六番目の上書' "応詔統籌全局折"をあげて光緒帝に変法の実行を申し込んだ。 この上書にすぐ戊戌変法の政策綱領が盛られている。 2月再び'七番目の上書'をあげてロシアのピーター大帝や日本の明治天皇のような決断で変法を施行しなさいと光緒帝の勇気を引き立ててくれた。

6月 11日遂に光緒帝は '明定国是'の証書を頒布して変法を宣布した。この維新政府はこの日から9月21日慈禧太后が政変を起こして '訓政(太上皇や皇太后が皇帝を置いたまま政務を見ていた制度)'を宣布するまで103日間持続したので歴史ではそれを'百日維新'という。 またこの年は戊戌年だから'戊戌変法'とも言う。

維新変法期間に康有為は何回も上訴を申し上げて詔勅を基礎としして、 政治、 経済、 軍事、 文化教育などの各方面に対する改革を建議した。 それからは譚司同などと新しい政策を論議しながら、 西洋資本主義国家をモデルとして中国の国家制度と社会制度を改革して民族の危機を求めようとした。

しかし彼らの維新変法は慈禧太后を中心にした保守派の反対にぶつかって難航を経るようになった。 9月14日光緒帝が頤和園に行って慈禧太后を会った時慈禧太后は新政を反対するという立場をはっきりと明らかにした。 それに当時宮廷では西太后が皇帝を廃位して改革派を逮捕しようと思うといううわさが広がって行っていた。 事態の深刻性を感知した康有為などは当時軍隊の実力者だった袁世凱の力を借りて危機を兔れようとした。 袁世凱はもうずいぶん前に康有為などと講学会を一緒にしながらお互いによく知っていたから彼を味方に引き入れることだけできたら希望がないのでもなかったからだった。

康有為は先に袁世凱に会って仕事の進行状況を話した後彼の協助を要請した。 一応袁世凱の同意を得てからまた光緒帝に袁世凱をお勧めしたし、 9月16日光緒帝は袁世凱を直接呼んで助けを要請した。 しかし光緒帝に会った後袁世凱は光緒帝と西太后の間をが比べてから結局西太后を選んで、 9月 20日すべての事実を西太后の側近栄禄に密告してしまった。

9月 21日この事を報告受けた西太后は政変を起こして光緒帝を中南海の瀛台に拘禁して'訓政'を宣布した。 政変で政権をまた取った慈禧太后は康有為と維新派に対する手配領を下げたが、康有為と梁啓超はイギリスと日本公使館の助けで海外で逃避することができた。 しかし維新派の核心人物だった譚嗣同、楊鋭、林旭、劉光第、康広仁、楊深秀などは皆つかまって北京野菜市場で斬首された。(歴史ではこの 6人を ' <戊戌六君子>'だと言う。)

 イギリス公使館の助けでイギリス艦隊に乗って香港に渡った康有為は自分の号を更生といって、この時から 16年間の亡命生活を始めた。その後また日本に行った康有為は1899年梁啓超などとともに光緒帝保護と慈禧太后、栄禄、剛毅などの保守勢力排斥を指導理念にする保皇会を創設して保皇会の領袖になった。 しかし光緒帝の死でその志を果たすことができなかった。
翌年義和団運動が起きると彼は"外国人を手伝って義和団を攻撃して皇帝を救出しよう"と主張をして、唐才常などが導く自立軍を策動して、 海外で経費を準備してくれるという約束をしたがうやむやになってしまった。

1901~1903年に彼はインドで ≪大同書≫、 ≪中庸注≫、 ≪論語注≫、 ≪春秋筆削微言大義考≫などを編纂した。彼は "順にきちんと進行しなくてはならない段階を飛び越えてはいけない"と言う改革説を主張して資産階級革命運動を反対した。
1907年保皇会を '国民憲政会(後正式に<帝国憲政会>になった)'と直したが、 これは清政府の憲政実施を推進する政治団体になった。

1913年中国に帰って上海で儒教会の会長を引き受けて雑誌≪不忍≫を責任編集しながら、 "共華制を反対して君主主義を保存しよう"の言論を発表した。

 1917年張勛と一緒に最後の皇帝である溥儀の皇帝復位を推進したが失敗で終わった。 晩年には上海で天游学院を運営しながら国学を講義した。

康有為の著作は非常に豊かで139種に達するのに、現在出版された代表的なのは台湾の阡」貴麟が編集した ≪康南海先生遺著匯刊≫、≪万木草堂遺稿≫、≪万木草堂遺稿外編≫などがある。

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