| 無為自然 |
結局のところ相対的な価値観に基づいて争っていても、どちらが「正しい」ということは決められないわけです。あるいは多くの人が「正しい」と言っても、本当にそれが正しいかどうかわかりません。そもそも絶対的な正しさというものはなく、社会的な価値観というのは変っていくのですから。そういうことで再び老子の言葉に立ち返ってみたいと思います。
天下みな美の美たるを知るも、斯れ悪のみ。みな善の善を知るも、斯れ不善のみ。 故(まこと)に有と無と相い生じ、難と易と相成り、長と短と相い形(あら)われ、高と下と相い傾き、音と声と相和し、前と後と相い随う。 是を以って聖人は、無為の事に処り、不言の教えを行なう。 万物焉(ここ)に作(おこ)るも、而も辞(ことば)せず、為すも而も恃まず。功成る而も居らず。夫れ唯だ居らず、是を以って去らず。(老子・2章)
老子がこの相対的な世界の混乱を治めるために提示しているのが聖人です。老子のいう聖人というのは宗教的な聖職者ではなく、「理想的な政治を行なう主体」というような意味合いです。『老子』の中の多くの章は、この聖人の行いについて述べられているのですが、その基本的態度を述べているのが2章のこの部分です。 しかし、「無為の事に処り」とはどういうことでしょうか。この無為というのが事柄に対処する老子の基本的な態度で、言葉通りに受け止めれば、「何もしない」ということになります。何かをしようとすれば、必ずその前に価値判断をしなければなりません。あれこれ考えていたのでは、相対的な世界の認識の混乱から抜け出せないわけです。「無為の事に処り」とは、簡単にいえば相対的対立を超えた立場に身を置くということになります。そして「不言の教えを行なう」。なぜ「不言」であるかと言えば、言葉というのは結局相対的世界のものですから絶対的なものを示せない。つまり、1章冒頭の「名の名とすべくは常の名に非ず」ということに対応しているわけで、すなわち道の基本的な性格です。以下「万物焉(ここ)に作(おこ)るも、而も辞(ことば)せず」からの説明は、明らかに道の働きを述べたものであり、それが聖人の働きと重ね合わせて語られていることがわかります。 引用 実践タオイズム研究 |
老子の一番代表的な思想で全てを自然の成り行きに任せる?って事かな、、、
老子は人間が真似も出来ない程、奥深い思想なので聖人である孔子でさえ敬遠してるので凡人である俺が100%理解出来る筈がない。ww