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中国歴史


中国思想 1

7,265 2008.07.28 16:35

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中華思想を理解するためにはその根幹を成す ‘中国’の思想的概念に対して分かる必要がある。
実は ‘中国’という用語が主権国家の概念で使われたことは 300年の歴史もないのである。 1869年に調印されたネルチンスク條約で当時清朝の外交使臣の身分を称する時 ‘中国’と言う用語を満洲語で初めて使った。 外交上で漢文に‘中国’の使われた用例は1842年阿片戦争の敗北で中国清朝がイギリスと結んだ南京条約が最初のことと知られている。その後清朝は西洋列強の相次ぐ侵略に元気なく崩れながら‘中国’という用語を使いながら幾多の講和條約を締結するようになる。

それなら清朝以前の歴史の中で中国人たちが称した‘中国’という用語は果してどんな用例で使われたし、それは当時中国人たちにどんな意味を持ったのか? この分野に対する研究は中国人のアイデンティティを理解するために必ず指摘して思わなければならない。

‘中国’と言う用語は中国の古典である ‘詩経’で最初に使われた。 詩経で使われた ‘中国’は四方と四夷 (中国四方に居住した辺方民族)の対称される概念で使われた。これを推し量る時周王朝時代に初めて出現した ‘中国’は周王朝の首都(京師)を指称するとか周の国王が統治した地域一帯を指称する用語で使われたことを分かる。
‘四方’と言うのは元々周王室によって分封された周辺の諸侯国を示すことだったし‘中国’は周王が居住する首都を意味することだったが、徐徐に周王が直接統治する地域一帯を教える意味に拡張された。 その後周王室の権威が衰落して周王室によって分封を受けるとか配置された諸侯国の勢力が剛性されるによって各諸侯国は周王室の統制権から脱して独自の勢力拡張をはかるようになった。 多くの諸侯国、すなわち ‘諸夏列国’はお互いの利権にだけ目がくらんで弱肉強食の論理で分裂を事とするようになりながら辺方民族たち(夷狄)が ‘中国’ 地を侵略することができる機会を許容するようになった。
春秋時代(B.C 770~B.C 476)には辺方民族の諸夏列国に対する侵略がほとんど毎年恣行されたがこれに対する諸夏列国の対応も非常に積極的な形態で成り立った。 春秋時代当時の覇者だった斉桓公はいわゆる ‘尊王壌夷’を標榜しながら諸侯たちを閨閤して辺方民族の侵奪から諸夏列国の生存を保護した。
このような構図の中で ‘中国’という用語は徐徐に春秋列国の諸夏列国全体を示す意味に拡がったのである。

周王の統治領域で諸夏列国の居住領域で拡がった‘中国’は孔子に至って ‘文化的な優越地域’という新しい意味が添加された。孔子は “蛮夷国に王様があることが諸夏列国に王様がないより劣っている”と言って ‘中国’の文化的優越性をはっきりと宣言するのに至った。 もちろん孔子を含めた多くの中国の思想家たちが中国辺方民族の存在価値を認めないのではない。しかしそれはあくまでも当時漢族が中心になった‘中国’ 地域の文化を受け入れた者等にだけ限定されるだけだった。

上記のように‘中国’と言う用語は相対的な関係設定の中で使われた。 周辺部と対称される‘中心部(Center)’と言う意味で初めて使われた‘中国’は政治と軍事的な意味の統治境界を設定する意味で徐徐に民族間のアイデンティティを境界を作る意味に拡張されて行った。 漢族と辺方民族の境界を象徴する‘中国’という用語は孔子とその他思想家たちの潤色を経りながら‘文化的優越性を持った中心部’という意味で深くなった。 その後自然に漢族とその他辺方民族を区分するいわゆる ‘夷夏之弁’と言う観念ができるようになったのである。 ‘中国’と言う用語をよく見れば中国人たちがどうしていつも民族と文化を一緒に論じるかの歴史的背景が分かる。

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